「研究力」という曖昧な言葉を科学計量学から考える
「日本の研究力が低下している。」
「この大学は研究力が高い。」
「研究力を強化しなければならない。」
近年、「研究力」という言葉は、研究政策や大学経営において最も頻繁に用いられるキーワードの一つになっています。文部科学省や内閣府の政策文書、大学の中期計画、新聞報道などを見ても、「研究力強化」という表現を目にしない日はありません。
しかし、その一方で、改めて考えてみると不思議なことがあります。
「研究力」とは、一体何を意味するのでしょうか。
論文数が多ければ研究力が高いのでしょうか。被引用数が多い研究者は研究力が高いのでしょうか。科研費を多く獲得している大学は研究力が高いのでしょうか。それとも、世界大学ランキングが高い大学ほど研究力が高いのでしょうか。
実は、この問いに対して唯一の正解はありません。
その理由は、「研究力」が自然科学の法則のように一義的に定義できる概念ではなく、研究評価や研究政策の文脈によって意味が変化する多面的な概念だからです。
科学計量学(Scientometrics)や研究評価(Research Evaluation)の分野では、研究力を単一の指標で評価することはほとんどありません。研究費や研究者数といった研究基盤、研究活動そのものを支える環境、論文や特許などの研究成果、さらには社会実装や人材育成までを含め、多様な側面から研究活動を捉えることが一般的です。
つまり、「研究力とは何か」という問いに答えるためには、「誰が、何のために研究力を評価しようとしているのか」を考える必要があります。
研究者が考える研究力とは「新しい知を生み出す力」である
研究者にとって研究力とは、論文を書く能力ではありません。
本質的には、これまで誰も知らなかった現象を発見し、新しい理論を提案し、新しい知識を社会へ提供する能力です。
論文は、その成果を学術コミュニティへ伝えるための手段であり、研究そのものの目的ではありません。
もちろん、研究成果を客観的に示すためには論文という形で公表することが不可欠です。しかし、論文数だけが増えても、新しい学術的価値が生み出されなければ、本質的な研究力が高まったとは言えません。
そのため、多くの研究者は「論文数だけで研究力を評価すること」に少なからず違和感を抱いています。
実際には、一つの論文が研究分野全体を大きく変えることもあれば、多数の論文を発表していても学術的な影響が限定的な場合もあります。
研究者にとって重要なのは、どれだけ多く論文を書いたかではなく、どれだけ新しい知を創造できたかという点にあります。
大学が考える研究力とは「研究成果を生み出し続ける組織の力」である
一方、大学という組織が考える研究力は、個々の研究者とは少し異なります。
大学は教育機関であると同時に研究機関でもあります。そのため、一人の優れた研究者だけではなく、組織全体として継続的に研究成果を創出できる体制が求められます。
その評価には、論文数、被引用数、科研費などの競争的研究費、共同研究、国際共著論文、博士課程学生数、知的財産、人材育成など、多様な指標が利用されています。
これらの指標は、それぞれ異なる側面を測定しています。論文数は研究成果の量を、被引用数は学術的影響力を、競争的研究費は研究計画の評価を、博士人材は将来の研究基盤を表しています。
大学経営では、限られた資源をどこへ重点配分するかという判断が常に求められます。そのため、研究活動を一定程度数値化し、組織全体の状況を客観的に把握する必要があります。
大学における研究力とは、「優れた研究者が存在すること」だけではなく、「優れた研究を継続的に生み出せる研究システムを維持できること」と言えるでしょう。
行政が考える研究力とは「国全体の科学技術競争力」である
国の研究政策を担当する行政機関では、さらに異なる視点から研究力が捉えられています。
文部科学省や内閣府が関心を持つのは、一人の研究者や一つの大学ではなく、日本全体として世界の中でどのような位置にあるのかという点です。
そのため、論文数、Top10%補正論文数、Top1%補正論文数、国際共著論文、研究開発投資、研究者数、博士人材、特許など、多数の統計指標を組み合わせて研究力を評価しています。
例えば、NISTEP(科学技術・学術政策研究所)が毎年公表する『科学技術指標』や『科学研究のベンチマーキング』では、単純な論文数だけではなく、研究成果の質や国際共同研究、人材育成などを含めた多面的な分析が行われています。
行政にとって研究力とは、科学技術政策の成果を評価し、今後どのような施策を講じるべきかを判断するための政策指標でもあるのです。
企業が重視する研究力は「社会的価値を生み出す力」である
企業における研究力の考え方も、大学とは異なります。
企業研究では、論文発表そのものが目的になることは多くありません。
新しい製品を開発できるか、新しい技術を実用化できるか、特許を取得し市場で競争優位を築けるかといった点が重視されます。
もちろん、基礎研究を重視する企業も存在します。しかし最終的には、研究成果が社会や産業へどのような価値を提供したかという視点が不可欠になります。
そのため、企業では論文数よりも知的財産や技術移転、製品化、事業化といった成果指標が重要視されることが少なくありません。
研究力という同じ言葉を用いていても、その意味は大学とは大きく異なっているのです。
学生が求める研究力は「良い研究室」である
学生にとって「研究力が高い研究室」という言葉は、必ずしも論文数や研究費を意味しているわけではありません。
多くの場合、学生が知りたいのは、「自分が成長できる研究室なのか」ということです。
指導教員との相性、研究テーマへの興味、研究設備、学生への支援体制、卒業後の進路など、研究室選びで重視される要素は数多くあります。
論文数が多い研究室が、必ずしもすべての学生にとって最適な環境とは限りません。
逆に、規模は小さくても丁寧な研究指導が行われ、学生が主体的に研究へ取り組める研究室もあります。
学生の立場から見た研究力とは、「優れた研究成果を出す力」というより、「研究を通じて成長できる環境」であると言えるでしょう。
「研究力」は一つの数字では表せない
ここまで見てきたように、研究力という言葉は、研究者、大学、行政、企業、学生のそれぞれで意味が異なっています。
これは決して曖昧な概念だからではありません。
研究活動そのものが、多面的な営みだからです。
論文数は研究成果の量を表しますが、質を直接測るものではありません。被引用数は学術的影響力を反映しますが、分野による引用慣行の違いを受けます。科研費は研究計画の評価を示しますが、研究成果そのものではありません。大学ランキングも教育や国際性など多様な要素を含んでいます。
つまり、どの指標も「研究力の一部」を測っているのであって、「研究力そのもの」を測っているわけではありません。
そのため、重要なのは「どの指標が最も優れているか」を議論することではなく、「どの目的のために、その指標を利用しているのか」を理解することです。
研究評価においては、一つの指標だけで結論を導くのではなく、複数の指標を組み合わせ、多面的に解釈する姿勢が求められます。
研究力とは「成果を生み出し続ける力」である
研究力は、完成した成果だけを意味する言葉ではありません。
優秀な若手研究者が育つ環境があること、研究に集中できる時間が確保されていること、自由な発想に基づく研究へ挑戦できる研究費があること、国内外の研究者と継続的に協働できるネットワークがあること。
こうした研究環境そのものも、研究力を構成する重要な要素です。
近年では、「Research Ecosystem(研究エコシステム)」という考え方が広まりつつあります。研究成果だけではなく、その成果を継続的に創出する仕組み全体を評価しようという考え方です。
優れた研究成果は、偶然生まれるものではありません。
研究者、人材育成、研究資金、研究時間、研究設備、共同研究、そして自由な学術環境という土壌があって初めて、新しい知識は生み出されます。
数字の先にある研究活動を見つめる
本シリーズでは、論文数、被引用数、h-index、インパクトファクター、科研費、大学ランキング、AIによる研究評価、国際卓越研究大学など、さまざまな研究評価指標を取り上げてきました。
それぞれの指標には、研究活動の一側面を可視化する重要な役割があります。しかし、どの指標にも限界があります。
だからこそ、数字だけを追いかけるのではなく、「その数字は何を示し、何を示していないのか」を理解することが重要です。
研究力とは、順位ではありません。
研究力とは、一つの論文数でも、一つのランキングでもありません。
研究力とは、新しい知識を創造し、それを社会へ還元し、さらに次の世代へ受け継いでいく力です。そして、その力は、一つの物差しだけでは決して測ることはできません。
私たちに求められているのは、数字を盲信することでも、数字を否定することでもありません。
数字を正しく理解し、その背後にある研究活動そのものへ目を向けることです。
研究力を考えるとは、結局のところ、「どのような研究環境が未来の知を生み出すのか」を考えることに他ならないのです。



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