『スキルアップ』の名の下に ブラックユニバーシティ編

大学教員パパの日常

大学で働いていると、時折、理解に苦しむ出来事に遭遇することがある。もちろん組織である以上、人事や業務分担にはさまざまな事情があるのだろう。しかし、その説明が論理的でなかったり、過去の判断との整合性が取れていなかったりすると、当事者としては納得しがたい。

今回は、私自身が経験した出来事について書いてみたい。

3年前の採用

今から3年前、私の勤務する大学で教員の退職に伴う補充人事が行われた。

新規採用とはいえ、実際には外部から人材を呼んだわけではない。もともと特任助教として勤務していた方を、パーマネント教員として採用したものである。

しかも、その際の職位は准教授だった。

一般的に考えれば、特任助教からいきなり准教授への昇任は決して珍しいわけではない。しかし、その人事には明確な理由が示されていた。

担当しなければならない教育・研究業務が非常に多く、高いレベルでそれらを担える人材が必要である。

おおよそ、そのような趣旨であったと記憶している。

実際、採用理由書にも似たような内容が記載されていた。

つまり、そのポストには准教授相当の業務量と責任があり、それを担う人材として当該教員が採用されたのである。

少なくとも私はそう理解していた。

突然降ってきた話

ところが先日、その認識を大きく揺るがす話が舞い込んできた。

その准教授が多忙で業務を十分に回せなくなっているため、一部の業務を私に担当してほしいというのである。

最初は何を言われているのか理解できなかった。

忙しいから業務を分担する。

ここまではわかる。

組織ではよくあることだ。

しかし問題は、その業務の性質である。

もともと「この業務を担うために准教授として採用した」と説明されていた仕事を、何の処遇変更もないまま私が引き受けることになるというのである。

正直なところ、頭の中に浮かんだ言葉は一つだった。

「は?」

である。

素朴な疑問

私は当然の疑問を投げかけた。

3年前の採用時には、その業務を担うために専任の教員を准教授として採用したはずではなかったのか。

しかも、それが採用理由として正式な文書にも記載されていたはずである。

もしその業務が本当に重要であり、相応の職位が必要な仕事だったのであれば、なぜ今になって別の人間が追加的に担当することになるのか。

そして、その際に職位や処遇について何の議論も行われないのはなぜなのか。

極めて自然な質問だと思う。

少なくとも感情論ではない。

組織としての説明責任を求めただけである。

ところが、返ってきた答えは予想外だった。

「スキルアップになるから」

説明の要旨はこうだった。

この業務を経験することは、将来的なスキルアップにつながる。

だから前向きに引き受けてほしい。

私は一瞬、自分の聞き間違いかと思った。

スキルアップ。

確かに新しい業務を経験すれば能力は向上するだろう。

誰しも仕事を通じて成長する。

それ自体は否定しない。

しかし、その理屈が成立するのは、業務の必要性や責任の所在が整理された上での話である。

本来は特定の職位に求められる業務として設計されていた仕事を、追加的な負担として他者に割り振りながら、その説明として「スキルアップ」を持ち出すのはどうなのだろうか。

それは成長機会の提供というより、組織の都合を耳障りの良い言葉で包み直しているだけではないか。

言葉の便利さと危うさ

大学に限らず、多くの組織では「成長」や「挑戦」という言葉が好まれる。

新しい仕事を任せるとき。

負担の大きい役割をお願いするとき。

あるいは人員不足を補うとき。

そうした場面で、「経験になる」「キャリア形成につながる」「スキルアップできる」といった表現がしばしば使われる。

もちろん、本当にそうした側面がある場合もある。

しかし、問題はそれが説明の代替物として使われることである。

本来であれば、

なぜその業務が必要なのか。

なぜその人が担当するのか。

どのような責任と権限が伴うのか。

それに見合う評価や処遇はどうなるのか。

こうした点を説明しなければならない。

ところが、それらを飛ばして「成長につながるから」という話になってしまうと、議論は急速に曖昧になる。

そして曖昧さのしわ寄せは、たいてい現場に押し付けられる。

不条理との付き合い方

大学という組織は、理性や論理を重んじる場所であるはずだ。

研究ではエビデンスを求める。

教育では論理的思考を教える。

会議では説明責任を語る。

しかし、その組織運営そのものが必ずしも論理的とは限らない。

むしろ時として驚くほど非合理な意思決定が行われる。

今回の出来事は、その典型例のように感じられた。

3年前には「この業務を担うために准教授が必要だ」と説明していた。

3年後には「忙しいから別の人にやってもらう」。

そして理由を尋ねれば「スキルアップになる」。

その間に失われているのは、一貫性であり、説明責任であり、そして何より働く人への敬意ではないだろうか。

もちろん、最終的に業務を引き受けるかどうかは別問題である。

組織で働く以上、理不尽な依頼に遭遇することは避けられない。

しかし少なくとも、その理不尽さを理不尽だと認識する感覚だけは失いたくない。

納得できないものを納得できないと言うこと。

説明を求めること。

過去の判断との整合性を問い直すこと。

それは決してわがままではないと思う。

むしろ、組織が健全であり続けるために必要な行為なのではないだろうか。

そんなことを考えながら、私は今日も「スキルアップ」という便利な言葉の重みについて考えている。

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